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無節操一本勝負

敵か味方か・・・深まる謎

皆鶴姫

皆鶴姫は二位大納言藤原成道の娘で、父が亡くなった後、母は彼女を連れて兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後妻となりました。
平治の乱で、義経は洛北の金剛寺会院鞍馬寺に預けられていました。

その後、承安四年義経は山科にあって平氏の動向を探っているうちに、鬼一法眼のことを聞き彼の持つ秘法六韜(りくとう)書十六巻(兵法書)の閲覧を願い出ましたが、許されませんでした。
そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり、密かに書き写すことに成功したが、平清盛に察知され義経は奥州へ逃げました。

皆鶴姫は義経の後を追い、奥州藤倉村までやってきましたが、病に倒れてしまいました。
村人達の手厚い看護により快方に向かいましたが、安元2年(1176)の春、皆鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。
時は弥生の12日、わずか18才でした。

義経は御山の会津の領主河辺太郎高経の屋敷にあって、[会津鑑によれば磐梯町の大寺]急いで藤倉にかけつけ、池のほとりに墓を造り、「安至尼」の法号をつけ供養しました。
藤倉の村人は、ここに皆鶴山難波寺を建立し姫の冥福を祈りました。




さて、以上が会津に伝わる皆鶴姫伝説だが、ツッコミどころも少々

まず『そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり』のくだり
どうも義経は皆鶴姫を利用したくさい
写すだけ写した後、さっさと奥州に逃げたって事から考えると、いよいよもって利用されたっぽい

次に、『義経の後を追い、奥州藤倉村まで来た』というくだり
わざわざ京都から奥州会津まで来たというのもどうかと
本当だったら行動力ありすぎだよ

で、最後がこれ
『鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。』
やつれたぐらいで死ぬなよ
まぁ、確かに平安時代の『美人』の定義(色白、下膨れ、鼻低い、肥満)からは逸脱するけどさ
(あれ?、よく考えると現代人が激太りするようなモンか?
ちょっと死にたくなるかも・・・)


結局のところ、実在していたかどうかも疑わしい話ではあるが、原型みたいなものはあったんだはないかと思う
例えば、義経と懇ろになった人物の存在とか、六韜三略とか、この地で池に身を投じた人物の存在だとか
そういった事実が一つ一つは関係ないとしても、偶然か必然か、1つの形になった(或いは、なってしまった)ものが、皆鶴姫伝説であると思う

20050130061845.jpg



宮城県気仙沼市や岩手県東磐井郡室根村にも皆鶴姫の似たような伝説があるが、義父に流刑にされた結果の奥州上陸とか、義経の子を生んだ後に死亡とか、流れ着いた時点で事切れていたとか、詳細が微妙に違う



ちなみに、この皆鶴姫の実父の藤原成道は蹴鞠の達人だそうで
京都の清水寺にお参りに行ったとき、舞台の欄干に飛び乗り、鞠を蹴りながらそこを往復したとか、熊野神社に参拝したときには、神殿の前で踵で蹴鞠を200回こなしたとか、練習中に鞠が家の中に飛びこみそうになったんで、とっさにオーバーヘッドキックをして鞠を蹴り出したとかいう逸話の持ち主である
生まれてくるのが820年くらい早かったな、うん
  1. 2004/12/20(Mon) 06:17:13|
  2. 歴史、伝説|
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