保廷4年(1138年)、 三浦大介義明の七男として三浦半島に生まれる
現在の横須賀周辺にある『佐原』を領したことから地名を苗字にし、佐原十郎義連と名乗った
また、その官職から、佐原十郎左衛門尉とも称する
源頼朝の挙兵の際には、父義明、兄義澄等と共に付き従う
一ノ谷の合戦では、搦手の源義経の麾下に加わった
「平家物語」によれば鵯越の奇襲戦の際に
「我等が三浦では、鳥一羽追うにも、朝夕かような所を駆け巡っております
我等にとっては、これは三浦の方の馬場ぞ」
と言い放ち、真っ先に崖を駆け下り、戦功を立てたという
文治5年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征討に従軍
軍功により会津門田庄を賜る
(『会津旧事雑考』では会津四郡・『吾妻鏡』には明記なし)
後に和泉・紀伊両国の守護に任ぜられた
頼朝の寝所近辺を警護する武士に選ばれるなど、頼朝の信頼は篤かったという
で、この人が
前回の大蛇を退治した人ね
沼に引き連れた家臣が、記述によっては十数名から50名までと、景気良く変動している
伝説って物には尾ひれがつくものだから、少ない方が現実味がありそうな感じがする
大蛇に飲み込まれて、家臣が毒でばたばた死んでいく中、この人だけ平気だった
兜に仕込んだ一寸八分の守本尊聖観音の御利益で、蛇毒も平気だったとか
で、蛇の腹をかっさばいて出てきたと
実に嘘臭ぇ話だが、伝説と言うものは、一抹の事実が紛れ込んでいるものなんで、観音像は実際に兜に縫い付けていたのかもしれない
その観音様は、どこぞに奉られているとかいう話を聞いたような気がしたが、これを書いている時点で情報の入手が出来なかったゆえ、事実確認は保留とする
で、下の写真は、耶麻郡熱塩加納村にある墓

この墓は昭和31年に県重要文化財の指定を受けているそうなんだけど、自分の墓が研究の対象となってしまったこの人の心中やいかに?
この世に霊がいるとしたら困惑してると思うぞ、絶対
んで、この人の子孫は会津に根付き、葦名と名を変え、元気に守護大名をやってましたとさ
伊達に滅ぼされたけどね
その滅亡に際し、埋蔵金伝説なんぞあったりする
が、そんなカネあったら滅んでないよなぁ
ゆえに、埋蔵金なんてバカの妄想に決まりっと
- 2004/12/24(Fri) 05:54:37|
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・沼御前神社の縁起
沼沢湖の主は雌の大蛇だとされており、昔は時々陸に上がって人畜をいためることが多かったので、鎌倉時代はじめ黒川(若松)の領主佐原十郎義連が退治したと伝えられています
その時頭だけを湖岸に埋め、大蛇の冥福を祈るため、その霊を神として祭りました
これが沼御前神社の縁起で、祭神の名は浜姫の命といいます
昼間は御殿のようなところで毎日機を織っていたという伝説があり、大正時代までは機織の夫人たちが度々参拝していたものです
・佐原十郎の大蛇退治
佐原左衛門慰義連12人の家来を引き連れて来る
沼の主の大蛇の棲む霧ヶ窪(沼沢湖)へ
「沼の主なる大蛇ぞ、人馬を苦しめ世を騒がすとは捨てておけぬ・・・」
しかし、佐原主従は筏諸共に大蛇に呑み込まれる
大蛇胎内の義連らは兜に付けた一寸八分の守本尊聖観音の御利益で助かる
腹かき切って外に出て大蛇を成敗して一件落着す
大蛇伝説が残る沼沢湖
古くは沼沢沼、さらに遡って霧ヶ窪と言われていた場所である
中国では竜にまつわる伝説は多いが、その竜が日本に上陸した際に、水の神としての性格が強調され、その姿を大蛇と変えた
この沼御前も、その例に漏れないものなのであろう
伝説というものは実際にあった何かから発生しており、無から生じた伝説の方が珍しいものなので、過去において何かがあったものと推測される
妥当だと思われるのは、大蛇の水の神という性質から、付近に度々起きた水の氾濫を、領主である佐原義連が治水によって止めたとかいう実績から生じたものではないだろうか
また、『雌の大蛇』と、性別が限定されている事から、この辺の豪族の娘にまつわるトラブルを解決したとかいうことも考えられる
さらに候補としては、この伝説の土台となった沼沢湖がカルデラ火山という事から、火山の噴火という事も考えられる
その頃の時代に噴火した痕跡は無いが、痕跡が残るほどの噴火は有る程度大規模なものなので、小規模な噴火があったのかもしれない
で、退治された大蛇なんだけど、殺生石の項でも書いたとおり、その後の祟りを恐れた民衆に祀られ、その過程でご利益を付加され、機織の神としての沼御前に変化したと推測される
ま、実際見てきた湖はただの湖なんだけどね

湖の周囲は自然が出鱈目に多いんで、狐狸妖怪の類が出てもおかしくはなさそうである
ましてや迷信深い昔の事だし
ついでに言うと、その後の沼御前から派生した、『実宗壇』というエピソードがある
弘安年間(1278〜)
厳しい夏の7月のある日、水泳ぎ中の”おなつ”という女の子が見えなくなり大騒ぎになった
その後、3日3晩探すも手がかりすら見つからなかった
その頃、上総生まれの山伏で、名を実宗という者が村に滞在していた
見つけ出したらおなつを嫁に貰うとの約束で、現在の山伏の滝で3日3晩の断食祈願し、「須崎の渕の御棚の3段目にいる」の託宣を受け、おなつを見つけ出す事が出来た
しかし、助け出されたおなつは口を利かず、夕日を見てはただ泣く毎日となる
その後おなつはだんだん弱っていき
「乙姫様のような沼御前は昼は機織り、夜は蛇体となられて恐ろしいこと」
という事を最期に、息を引き取った
実宗も愛妻を亡くした悲しみから後を追うように亡くなったという
この二人の墓を実宗壇という
沼御前らしきものが出てきたんで記載したが、さて、この物語はどう解釈したものか・・・
- 2004/12/23(Thu) 05:58:18|
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殺生石は下野国那須野にあり
老狐の化する所にして
鳥獣これに触れば皆死す
応永二年乙亥正月十一日
源翁和尚これを打破すといふ
さて、この殺生石
もともとは九尾の狐で、退治されて変化したものであり
退治されてなお人畜に害をなす存在である
これをさらに退治したのが源翁という和尚
杖で打ち据え、叩き砕いて成仏させた
その際、砕かれた石の一部が全国に飛散したという
さて、後に金槌
「玄能」の語源となったこの玄翁和尚
元々は会津の和尚さんで、粉砕したその欠片は、ホームグラウンドの会津にも景気良く飛散したワケだ
元々は祟り神の一種なんだけど、民衆っちゅうのは祟り神を祟り神として祀り続けるほど強くない、と
まぁ、「祀らないと祟るぞ」と恫喝されっぱなしで、祀る事に何のメリットも無いんじゃ誰も祀らないわな
でも、祀らないと祟られる(実際祟られなくともそう信じられていた)わけで
その結果、後付けで現世利益が付加されたり、何かと混合される
で、その結果、キツネつながりでお稲荷さんと混合されて、殖産興行、商売繁盛、五穀豊穣とかの仕事を押し付けられるワケだ
で、長くなったけど、下にあるのが神社に押し込められ、ご利益を運ぶ対象にさせられた殺生石の写真っちゅうワケです

玄翁和尚ゆかりの慶徳神社
ここには殺生石の霊が棲むという
(福島県喜多方市)

殺生石稲荷神社
殖産興業、商売繁盛のご利益がある
(福島県会津高田町)
ちなみにこの殺生石
源翁和尚に打破され、その毒気は薄れたものの、毒気は完全に絶たれてはおらず、現在も栃木県那須野で元気に毒ガスを撒き散らしている
具体的に言うと硫化水素とかの火山性ガスね
科学的な知識の無かった時代だから、ロクでもないことが起きるのに何かの理由が欲しかったんだろう
で、たまたま巨石の類があった(火山性のガスが出るくらいだから、過去噴火による岩の飛散があったと思われるし)んで、それに理由をつけて災厄の原因にしたっちゅうのが殺生石伝説のはじまりだと思うよ、俺ァ
- 2004/12/22(Wed) 06:09:03|
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山口一、山口次郎、一瀬傳八(一戸伝八とも)、藤田五郎
学んだ流派は一刀流、溝口派一刀流、聖徳太子流、津田一伝流、無外流と諸説ある
(新選組入隊以前、試衛館に出入りしていた可能性もあり、天然理心流も学んだ可能性もある)
副長助勤、土方隊属、四番組長、三番隊組長、撃剣師範、槍頭、新選組隊長、豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長
この中では新撰組三番隊組長が有名
天保15年(1844) 正月一日
山口祐助の家に次男として江戸で生まれる
19歳の頃旗本を殺害し、京へ逃れたと言う説があるが、詳細は不明
20歳の頃、京都にて壬生浪士組(新撰組)に加盟
伊東甲子太郎の分離に際し近藤の密偵として潜入したと言われているが詳細は不明
その後『 油小路の変』において伊東甲子太郎は粛清される
斎藤一の関与はこれも不明とされている
その後、新撰組復帰
天満屋事件、二条城の警備等を経て戊辰戦争が勃発
戊辰戦争の会津では新撰組隊長として奮戦
後に土方と合流するが、主張の違いから土方と袂を分かち、会津に残った
一時期、ここで戦死したと思われていた
維新後は謹慎を経て警視庁に警部補として就職
警視庁就業中、西南戦争が勃発それに出陣し、二番小隊半隊長として部隊の指揮を行った
警視庁退職後は教育博物館看守、その後さらに女子師範学校書記となる
大正4年(1915)9月28日
胃潰瘍のため、東京は本郷の自宅でその激動の生涯に幕を下ろす
死期を悟り、床の間に端座しながらの最期であったという
享年71歳

会津若松市七日町にある阿弥陀寺に、斎藤一の墓がある

墓石の裏にあった卒塔婆に「斎藤一」の文字が確認できる

ところで、墓の手前右側に「名刺受」があったんだが
これはどういう用途で使えと?
- 2004/12/21(Tue) 06:15:50|
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皆鶴姫は二位大納言藤原成道の娘で、父が亡くなった後、母は彼女を連れて兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後妻となりました。
平治の乱で、義経は洛北の金剛寺会院鞍馬寺に預けられていました。
その後、承安四年義経は山科にあって平氏の動向を探っているうちに、鬼一法眼のことを聞き彼の持つ秘法六韜(りくとう)書十六巻(兵法書)の閲覧を願い出ましたが、許されませんでした。
そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり、密かに書き写すことに成功したが、平清盛に察知され義経は奥州へ逃げました。
皆鶴姫は義経の後を追い、奥州藤倉村までやってきましたが、病に倒れてしまいました。
村人達の手厚い看護により快方に向かいましたが、安元2年(1176)の春、皆鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。
時は弥生の12日、わずか18才でした。
義経は御山の会津の領主河辺太郎高経の屋敷にあって、[会津鑑によれば磐梯町の大寺]急いで藤倉にかけつけ、池のほとりに墓を造り、「安至尼」の法号をつけ供養しました。
藤倉の村人は、ここに皆鶴山難波寺を建立し姫の冥福を祈りました。
さて、以上が会津に伝わる皆鶴姫伝説だが、ツッコミどころも少々
まず『そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり』のくだり
どうも義経は皆鶴姫を利用したくさい
写すだけ写した後、さっさと奥州に逃げたって事から考えると、いよいよもって利用されたっぽい
次に、『義経の後を追い、奥州藤倉村まで来た』というくだり
わざわざ京都から奥州会津まで来たというのもどうかと
本当だったら行動力ありすぎだよ
で、最後がこれ
『鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。』
やつれたぐらいで死ぬなよ
まぁ、確かに平安時代の『美人』の定義(色白、下膨れ、鼻低い、肥満)からは逸脱するけどさ
(あれ?、よく考えると現代人が激太りするようなモンか?
ちょっと死にたくなるかも・・・)
結局のところ、実在していたかどうかも疑わしい話ではあるが、原型みたいなものはあったんだはないかと思う
例えば、義経と懇ろになった人物の存在とか、六韜三略とか、この地で池に身を投じた人物の存在だとか
そういった事実が一つ一つは関係ないとしても、偶然か必然か、1つの形になった(或いは、なってしまった)ものが、皆鶴姫伝説であると思う

宮城県気仙沼市や岩手県東磐井郡室根村にも皆鶴姫の似たような伝説があるが、義父に流刑にされた結果の奥州上陸とか、義経の子を生んだ後に死亡とか、流れ着いた時点で事切れていたとか、詳細が微妙に違う
ちなみに、この皆鶴姫の実父の藤原成道は蹴鞠の達人だそうで
京都の清水寺にお参りに行ったとき、舞台の欄干に飛び乗り、鞠を蹴りながらそこを往復したとか、熊野神社に参拝したときには、神殿の前で踵で蹴鞠を200回こなしたとか、練習中に鞠が家の中に飛びこみそうになったんで、とっさにオーバーヘッドキックをして鞠を蹴り出したとかいう逸話の持ち主である
生まれてくるのが820年くらい早かったな、うん
- 2004/12/20(Mon) 06:17:13|
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