保廷4年(1138年)、 三浦大介義明の七男として三浦半島に生まれる
現在の横須賀周辺にある『佐原』を領したことから地名を苗字にし、佐原十郎義連と名乗った
また、その官職から、佐原十郎左衛門尉とも称する
源頼朝の挙兵の際には、父義明、兄義澄等と共に付き従う
一ノ谷の合戦では、搦手の源義経の麾下に加わった
「平家物語」によれば鵯越の奇襲戦の際に
「我等が三浦では、鳥一羽追うにも、朝夕かような所を駆け巡っております
我等にとっては、これは三浦の方の馬場ぞ」
と言い放ち、真っ先に崖を駆け下り、戦功を立てたという
文治5年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征討に従軍
軍功により会津門田庄を賜る
(『会津旧事雑考』では会津四郡・『吾妻鏡』には明記なし)
後に和泉・紀伊両国の守護に任ぜられた
頼朝の寝所近辺を警護する武士に選ばれるなど、頼朝の信頼は篤かったという
で、この人が
前回の大蛇を退治した人ね
沼に引き連れた家臣が、記述によっては十数名から50名までと、景気良く変動している
伝説って物には尾ひれがつくものだから、少ない方が現実味がありそうな感じがする
大蛇に飲み込まれて、家臣が毒でばたばた死んでいく中、この人だけ平気だった
兜に仕込んだ一寸八分の守本尊聖観音の御利益で、蛇毒も平気だったとか
で、蛇の腹をかっさばいて出てきたと
実に嘘臭ぇ話だが、伝説と言うものは、一抹の事実が紛れ込んでいるものなんで、観音像は実際に兜に縫い付けていたのかもしれない
その観音様は、どこぞに奉られているとかいう話を聞いたような気がしたが、これを書いている時点で情報の入手が出来なかったゆえ、事実確認は保留とする
で、下の写真は、耶麻郡熱塩加納村にある墓

この墓は昭和31年に県重要文化財の指定を受けているそうなんだけど、自分の墓が研究の対象となってしまったこの人の心中やいかに?
この世に霊がいるとしたら困惑してると思うぞ、絶対
んで、この人の子孫は会津に根付き、葦名と名を変え、元気に守護大名をやってましたとさ
伊達に滅ぼされたけどね
その滅亡に際し、埋蔵金伝説なんぞあったりする
が、そんなカネあったら滅んでないよなぁ
ゆえに、埋蔵金なんてバカの妄想に決まりっと
- 2004/12/24(Fri) 05:54:37|
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・沼御前神社の縁起
沼沢湖の主は雌の大蛇だとされており、昔は時々陸に上がって人畜をいためることが多かったので、鎌倉時代はじめ黒川(若松)の領主佐原十郎義連が退治したと伝えられています
その時頭だけを湖岸に埋め、大蛇の冥福を祈るため、その霊を神として祭りました
これが沼御前神社の縁起で、祭神の名は浜姫の命といいます
昼間は御殿のようなところで毎日機を織っていたという伝説があり、大正時代までは機織の夫人たちが度々参拝していたものです
・佐原十郎の大蛇退治
佐原左衛門慰義連12人の家来を引き連れて来る
沼の主の大蛇の棲む霧ヶ窪(沼沢湖)へ
「沼の主なる大蛇ぞ、人馬を苦しめ世を騒がすとは捨てておけぬ・・・」
しかし、佐原主従は筏諸共に大蛇に呑み込まれる
大蛇胎内の義連らは兜に付けた一寸八分の守本尊聖観音の御利益で助かる
腹かき切って外に出て大蛇を成敗して一件落着す
大蛇伝説が残る沼沢湖
古くは沼沢沼、さらに遡って霧ヶ窪と言われていた場所である
中国では竜にまつわる伝説は多いが、その竜が日本に上陸した際に、水の神としての性格が強調され、その姿を大蛇と変えた
この沼御前も、その例に漏れないものなのであろう
伝説というものは実際にあった何かから発生しており、無から生じた伝説の方が珍しいものなので、過去において何かがあったものと推測される
妥当だと思われるのは、大蛇の水の神という性質から、付近に度々起きた水の氾濫を、領主である佐原義連が治水によって止めたとかいう実績から生じたものではないだろうか
また、『雌の大蛇』と、性別が限定されている事から、この辺の豪族の娘にまつわるトラブルを解決したとかいうことも考えられる
さらに候補としては、この伝説の土台となった沼沢湖がカルデラ火山という事から、火山の噴火という事も考えられる
その頃の時代に噴火した痕跡は無いが、痕跡が残るほどの噴火は有る程度大規模なものなので、小規模な噴火があったのかもしれない
で、退治された大蛇なんだけど、殺生石の項でも書いたとおり、その後の祟りを恐れた民衆に祀られ、その過程でご利益を付加され、機織の神としての沼御前に変化したと推測される
ま、実際見てきた湖はただの湖なんだけどね

湖の周囲は自然が出鱈目に多いんで、狐狸妖怪の類が出てもおかしくはなさそうである
ましてや迷信深い昔の事だし
ついでに言うと、その後の沼御前から派生した、『実宗壇』というエピソードがある
弘安年間(1278~)
厳しい夏の7月のある日、水泳ぎ中の”おなつ”という女の子が見えなくなり大騒ぎになった
その後、3日3晩探すも手がかりすら見つからなかった
その頃、上総生まれの山伏で、名を実宗という者が村に滞在していた
見つけ出したらおなつを嫁に貰うとの約束で、現在の山伏の滝で3日3晩の断食祈願し、「須崎の渕の御棚の3段目にいる」の託宣を受け、おなつを見つけ出す事が出来た
しかし、助け出されたおなつは口を利かず、夕日を見てはただ泣く毎日となる
その後おなつはだんだん弱っていき
「乙姫様のような沼御前は昼は機織り、夜は蛇体となられて恐ろしいこと」
という事を最期に、息を引き取った
実宗も愛妻を亡くした悲しみから後を追うように亡くなったという
この二人の墓を実宗壇という
沼御前らしきものが出てきたんで記載したが、さて、この物語はどう解釈したものか・・・
- 2004/12/23(Thu) 05:58:18|
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殺生石は下野国那須野にあり
老狐の化する所にして
鳥獣これに触れば皆死す
応永二年乙亥正月十一日
源翁和尚これを打破すといふ
さて、この殺生石
もともとは九尾の狐で、退治されて変化したものであり
退治されてなお人畜に害をなす存在である
これをさらに退治したのが源翁という和尚
杖で打ち据え、叩き砕いて成仏させた
その際、砕かれた石の一部が全国に飛散したという
さて、後に金槌
「玄能」の語源となったこの玄翁和尚
元々は会津の和尚さんで、粉砕したその欠片は、ホームグラウンドの会津にも景気良く飛散したワケだ
元々は祟り神の一種なんだけど、民衆っちゅうのは祟り神を祟り神として祀り続けるほど強くない、と
まぁ、「祀らないと祟るぞ」と恫喝されっぱなしで、祀る事に何のメリットも無いんじゃ誰も祀らないわな
でも、祀らないと祟られる(実際祟られなくともそう信じられていた)わけで
その結果、後付けで現世利益が付加されたり、何かと混合される
で、その結果、キツネつながりでお稲荷さんと混合されて、殖産興行、商売繁盛、五穀豊穣とかの仕事を押し付けられるワケだ
で、長くなったけど、下にあるのが神社に押し込められ、ご利益を運ぶ対象にさせられた殺生石の写真っちゅうワケです

玄翁和尚ゆかりの慶徳神社
ここには殺生石の霊が棲むという
(福島県喜多方市)

殺生石稲荷神社
殖産興業、商売繁盛のご利益がある
(福島県会津高田町)
ちなみにこの殺生石
源翁和尚に打破され、その毒気は薄れたものの、毒気は完全に絶たれてはおらず、現在も栃木県那須野で元気に毒ガスを撒き散らしている
具体的に言うと硫化水素とかの火山性ガスね
科学的な知識の無かった時代だから、ロクでもないことが起きるのに何かの理由が欲しかったんだろう
で、たまたま巨石の類があった(火山性のガスが出るくらいだから、過去噴火による岩の飛散があったと思われるし)んで、それに理由をつけて災厄の原因にしたっちゅうのが殺生石伝説のはじまりだと思うよ、俺ァ
- 2004/12/22(Wed) 06:09:03|
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山口一、山口次郎、一瀬傳八(一戸伝八とも)、藤田五郎
学んだ流派は一刀流、溝口派一刀流、聖徳太子流、津田一伝流、無外流と諸説ある
(新選組入隊以前、試衛館に出入りしていた可能性もあり、天然理心流も学んだ可能性もある)
副長助勤、土方隊属、四番組長、三番隊組長、撃剣師範、槍頭、新選組隊長、豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長
この中では新撰組三番隊組長が有名
天保15年(1844) 正月一日
山口祐助の家に次男として江戸で生まれる
19歳の頃旗本を殺害し、京へ逃れたと言う説があるが、詳細は不明
20歳の頃、京都にて壬生浪士組(新撰組)に加盟
伊東甲子太郎の分離に際し近藤の密偵として潜入したと言われているが詳細は不明
その後『 油小路の変』において伊東甲子太郎は粛清される
斎藤一の関与はこれも不明とされている
その後、新撰組復帰
天満屋事件、二条城の警備等を経て戊辰戦争が勃発
戊辰戦争の会津では新撰組隊長として奮戦
後に土方と合流するが、主張の違いから土方と袂を分かち、会津に残った
一時期、ここで戦死したと思われていた
維新後は謹慎を経て警視庁に警部補として就職
警視庁就業中、西南戦争が勃発それに出陣し、二番小隊半隊長として部隊の指揮を行った
警視庁退職後は教育博物館看守、その後さらに女子師範学校書記となる
大正4年(1915)9月28日
胃潰瘍のため、東京は本郷の自宅でその激動の生涯に幕を下ろす
死期を悟り、床の間に端座しながらの最期であったという
享年71歳

会津若松市七日町にある阿弥陀寺に、斎藤一の墓がある

墓石の裏にあった卒塔婆に「斎藤一」の文字が確認できる

ところで、墓の手前右側に「名刺受」があったんだが
これはどういう用途で使えと?
- 2004/12/21(Tue) 06:15:50|
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皆鶴姫は二位大納言藤原成道の娘で、父が亡くなった後、母は彼女を連れて兵法学者法眼吉岡鬼一憲海の後妻となりました。
平治の乱で、義経は洛北の金剛寺会院鞍馬寺に預けられていました。
その後、承安四年義経は山科にあって平氏の動向を探っているうちに、鬼一法眼のことを聞き彼の持つ秘法六韜(りくとう)書十六巻(兵法書)の閲覧を願い出ましたが、許されませんでした。
そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり、密かに書き写すことに成功したが、平清盛に察知され義経は奥州へ逃げました。
皆鶴姫は義経の後を追い、奥州藤倉村までやってきましたが、病に倒れてしまいました。
村人達の手厚い看護により快方に向かいましたが、安元2年(1176)の春、皆鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。
時は弥生の12日、わずか18才でした。
義経は御山の会津の領主河辺太郎高経の屋敷にあって、[会津鑑によれば磐梯町の大寺]急いで藤倉にかけつけ、池のほとりに墓を造り、「安至尼」の法号をつけ供養しました。
藤倉の村人は、ここに皆鶴山難波寺を建立し姫の冥福を祈りました。
さて、以上が会津に伝わる皆鶴姫伝説だが、ツッコミどころも少々
まず『そこで義経は皆鶴姫と恋仲になり』のくだり
どうも義経は皆鶴姫を利用したくさい
写すだけ写した後、さっさと奥州に逃げたって事から考えると、いよいよもって利用されたっぽい
次に、『義経の後を追い、奥州藤倉村まで来た』というくだり
わざわざ京都から奥州会津まで来たというのもどうかと
本当だったら行動力ありすぎだよ
で、最後がこれ
『鶴姫は難波池に映った自分のやつれた姿に驚き、嘆き悲しみ、池に身を投じてしまいました。』
やつれたぐらいで死ぬなよ
まぁ、確かに平安時代の『美人』の定義(色白、下膨れ、鼻低い、肥満)からは逸脱するけどさ
(あれ?、よく考えると現代人が激太りするようなモンか?
ちょっと死にたくなるかも・・・)
結局のところ、実在していたかどうかも疑わしい話ではあるが、原型みたいなものはあったんだはないかと思う
例えば、義経と懇ろになった人物の存在とか、六韜三略とか、この地で池に身を投じた人物の存在だとか
そういった事実が一つ一つは関係ないとしても、偶然か必然か、1つの形になった(或いは、なってしまった)ものが、皆鶴姫伝説であると思う

宮城県気仙沼市や岩手県東磐井郡室根村にも皆鶴姫の似たような伝説があるが、義父に流刑にされた結果の奥州上陸とか、義経の子を生んだ後に死亡とか、流れ着いた時点で事切れていたとか、詳細が微妙に違う
ちなみに、この皆鶴姫の実父の藤原成道は蹴鞠の達人だそうで
京都の清水寺にお参りに行ったとき、舞台の欄干に飛び乗り、鞠を蹴りながらそこを往復したとか、熊野神社に参拝したときには、神殿の前で踵で蹴鞠を200回こなしたとか、練習中に鞠が家の中に飛びこみそうになったんで、とっさにオーバーヘッドキックをして鞠を蹴り出したとかいう逸話の持ち主である
生まれてくるのが820年くらい早かったな、うん
- 2004/12/20(Mon) 06:17:13|
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名は司馬衷(しばちゅう)
生没年は259~306
晋の武帝司馬炎の後を継いだ
帝位につく前からその馬鹿っぷりには定評があり、時期皇帝になる指名されたた後に、武帝に「玉座がもったいのうございます」と言い出す奴が現れるほどの徹底した馬鹿である
(まあ、親父の武帝も武帝で、比喩じゃ無しに後宮に妾が1万人居たっちゅうロクデナシなんだが)
帝位に着いてからもその馬鹿っぷりを遺憾なく発揮し、国を飢饉が襲ったとき、部下が「民は喰う米が無くてとても飢えております」と報告すると、「米が無いならどうして肉を食わんのだ」と言ったという逸話が残っている
その後そのバカっぷりから内乱を招き、毒殺という最期を迎える
まあ、なんと申しますか、「暗君オブザイヤー」とかがあれば生涯一位を取りそうな人ですわな
せめてもの救いは人柄は悪くなかったらしいという事か
これで性格が悪かったら馬鹿のグランドスラムは確定なんだが
- 2002/10/12(Sat) 05:57:29|
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多くの人に「征夷大将軍に任命され蝦夷を討伐した」程度の認識しかされていないこの人
この人のもの凄ぇ身体的特徴が史書に残っていたので紹介します
(出展:群書類従、田邑麻呂伝記 ※原文は漢文)
(前略)大将軍は身の丈五尺八寸(約175cm)、胸の厚さ一尺二寸(約36cm)の堂々とした姿である
これはまぁ普通だろう
目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている
ヒゲが光ってるそうなんです
だが、これはまだ軽いジャブ程度
体は重い時には二百一斤(約120kg)、軽い時には六十四斤(約38kg)、その軽重は意のままであり、行動は機に応じて機敏であった
おいおいおいおい
82kgの増減が意のままって、どういう人間やねん
怒って眼をめぐらせれば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった(後略)
怒ると猛獣が死ぬそうです
で、笑うと子供もたちまち懐くそうな
ちょっと描写が難しい人だね、こりゃ
という訳で、日本の初代征夷大将軍はとんだ奇人変人だったようです
伝説ってやつは、多かれ少なかれ現実に起こったことを反映してるはずなんだけど、ちょっとフォローに困る伝説ですわな
正直ヨッパライのヨタ話のほうがまともな事を言ってると思いますだ
- 2002/10/07(Mon) 06:20:31|
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一昔前のお札の肖像画といえば聖徳太子である
この肖像画は、法隆寺に伝えられ、天皇家に献上された「聖徳太子及二王子像」をもとにして描かれたものだが、矛盾点がちらほら見える
まず、手に持っている板状の棒
これは「笏」というモノで、天皇、公卿、役人などの儀服一式の1つで、威儀を正すためのものなのだが、これが用いられるようになったのは、孝徳天皇在位中の大化三年の事で、西暦に直すと647年の事と言われている
聖徳太子が死んだ年は622年だから、このオッサンが持っておるハズがないアイテムなのである
んで、服装だが、肖像の着ている服は「朱華衣(はねず)」といい、帽子が「漆紗冠(しっしゃかん)」という
朱華衣が礼服で、675年以降から登場しており、漆紗冠は朝服で、朱華衣を着ている場合には普通は着けない
(現代でいうと、礼服を着て制服の帽子だけかぶるようなモノだ。
警察官が、スーツに警帽をかぶった姿を想像すれば理解しやすいだろうと思う)
あとは顎髭だが、墨の色や線の流れを見ると、他の場所とはかなり違っており、後世の加筆である事が判明しているそうだ
結局この肖像画の人物は、聖徳太子その人ではなく、聖徳太子の死後、何物かをモデルに描いたものであるというのが真相らしい
*疑惑の聖徳太子像はこちら*
[聖徳太子の肖像]の続きを読む
- 2001/09/27(Thu) 06:33:27|
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源平の戦いで、平家が摂津の一の谷の、前は海、後ろは鵯越(ひよどりごえ)といわれる断崖という、守りに適した場所に布陣したが、義経が鵯越の断崖を突破し奇襲をかけ、平家をボロクソに叩いたという内容の戦いである
「鹿が崖を越えてるんで、馬にも可能だろう」
という無茶な論理で有名な戦いだが、ちょっとした異説がある
戦いの前日に、後白河上皇の近臣、修理権大夫という者が、使者を平家陣地に送り込み、手紙を届けさせていたという事実が、鎌倉時代の正史である「吾妻鏡」により発覚する
その手紙は
「源平和平交渉のため、上皇の代理でそっちに向かうんで、交渉中は戦闘したらいかんよ。これは源氏側にも伝えてある」
という内容である
まあ、早い話が上からの停戦命令で、平家はこれを信用して、武装を解除しちまったところに、義経が奇襲をかけたってワケだ
結果はモチロン平家惨敗
……というコトは、義経はわざわざ崖を下らなくても、平家に勝利出来たのではないか?
それ以前に、義経でなくても勝てた戦いなのではないか?
まあ、そんな異説でした
- 2001/09/26(Wed) 06:25:58|
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五条橋の戦いは、義経と弁慶との出会いの有名なエピソードである
五条橋は、賀茂川と五条通りの交差する場所にある橋だが、実は当時橋自体が架かってなかったので、この戦いはそもそも成立しないのである
まあ、歴史と物語は違うって事ですな
- 2001/09/26(Wed) 06:24:26|
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張飛の血族を調べてみると、結構面白い血統だったりする
まず、張飛の嫁だが、夏候淵の姪である
200年(官渡の戦いの頃)に張飛にさらわれ、名家が好きな張飛が、そのまま嫁にしてしまったと正史に記述がある
張飛の娘は223年に劉禅に嫁いでいる
(ってえ事は、張飛は皇帝の正式な親族という事になる)
そして、その娘が227年に若くして死ぬと、今度は妹が皇后になった
年号は228年で、すでに劉備も張飛もこの世を去っている
したがって、しがらみに捕らわれる必要もなかったはずなので、純粋に劉禅好みの娘だったのだと推測される
う~ん、張飛の娘は美人だったのかなぁ……想像しにくいんだけどなぁ……
とにかく面白い血統だという事は確かである
2000/3/27
- 2000/03/27(Mon) 06:01:41|
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第1話
時は世紀末。
漢は張角という宗教かぶれのオッサンのせいで揺れていた
第2話
張角は討伐されて死んだけど、十常侍というバカどものせいで、依然漢は揺れていた
第3話
バカどもはブッ殺したが、董卓っていう新しいバカが登場した
第4話
董卓があんまりヤな奴なもんで「董卓をぶっ殺そうぜ同盟」が成立した
第5話
「董卓をぶっ殺そうぜ同盟」はバカばっかりなので内部から崩壊した
第6話
董卓は、やりたい放題やったあげく部下の呂布っていうオッサンに殺された
第7話
そのころ曹操というオッサンが、どさくさにまぎれて成り上がっていた
第8話
曹操軍はものすごく強く、呂布は殺すわ袁紹は殺すわで、あっという間に中国の半分を手に入れた
第9話
この頃、皇帝の血を引くとフカしていた劉備が、諸葛亮を配下に加えていた
第10話
戦争に勝ちまくって調子に乗っていた曹操は、赤壁で孫権&劉備軍にボコボコにされ、逃げ帰った
第11話
自分の国を持たない劉備は、ダーティーな手で他国を乗っ取り、拠点とした
第12話
劉備軍は曹操&孫権軍と戦い、大事な部下の関羽を殺された
第13話
その頃曹操は曹操であっさりと病死していた
第14話
曹操の息子曹丕は、お家騒動の末、皇帝から帝位を強引に貰って皇帝になった
第15話
自分だけ皇帝になった曹丕にジェラシーを感じた劉備は、自分も皇帝になった
第16話
孫権もドサクサにまぎれて皇帝になり、こうして三国時代が始まった
第17話
関羽を殺された事を根に持っていた劉備軍は、孫権軍と戦い、帰り討ちにあった
第18話
劉備は大負けしたのがショックすぎて死んだ";
第19話
こうして劉備から後を任された諸葛亮の苦難の日々が始まった
第20話
諸葛亮は南蛮が不穏なのでヤキを入れた以後南蛮の不穏な動きは消えた
第21話
諸葛亮は調子に乗って魏に遠征したが、部下の馬謖がボンクラだったせいで大負けした
第22話
諸葛亮はしつこく魏に遠征したが、途中で過労死した
第23話
そして、数年にわたり魏呉蜀とこぜりあいを続けていたら、司馬炎が魏を乗っ取って皇帝になった
第24話
司馬炎はあっさり蜀と呉を滅ぼし、三国時代は終わった。
「三国志 ~完~」
HPトップに置いといたお話だけど、PCじゃあ見れないので、ここに移動しました
1時間に1話進んでったのですわ
- 2000/02/18(Fri) 06:03:06|
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陳留郡の人で性は呉、名は壱、字は子遠
骨っぽい男で、博愛の心をもち、弱軍を率いて強敵を制圧し、危機に陥ることがなかったという
この人も陳到と同じく正史に正式には登場していないが、最終的に車騎将軍・仮節に昇進している上、妹は劉備の夫人だったりする
おいおいおいおい、車騎将軍で義弟だぜ!!
なんでこんな人の資料が乏しいんだ!?
とにかくマイナーな武将です
- 2000/02/14(Mon) 06:06:19|
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汝南郡の人で、性は陳、名は到、字は叔至
名声、官位ともに趙雲の次にある忠節勇武な人物
当時選り抜きの兵士を指揮し、猛将として勲功をあげた
当時においても資料が無さすぎて、正史にも正式には登場していない武将
当然演義にも登場しない
こういう人って多いんだろうなぁ・・・
- 2000/02/14(Mon) 05:09:44|
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常山郡真定県の出身で姓は趙、名は雲、字は子龍
若武者のイメージがあるが、実は劉備より年上(当然関羽、張飛よりも上)である
演義において劉備の息子劉禅を2度救っている
逆に言うと、このボンクラを2度も救ってしまったのだ
正史において、関、張、馬、黄と共に列伝を立てられてはいるが、将軍職では他の4人よりも格下であるので、もしかしたら統率は苦手だったのかも知れない
そういえば、この人の活躍のエピソードって個人的な武勇が多いしなぁ
- 2000/02/13(Sun) 06:18:00|
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愚帝だったため、董卓によって廃帝にされた弁王子
この人は本当に愚帝だったのかな?とか思う
前の皇帝の霊帝がそうだったように、世間知らずで、なんでも「よきにはからえ」しか言わない愚帝のほうが、甘い汁を吸えるじゃないか?
それなのに董卓は、愚鈍な弁王子を退けて、聡明な協王子をたてた訳でしょ?
おかしくない?
そこで考えられるのは、弁王子は実は聡明だったんじゃないかっていう仮説
頭が切れるやつだったから廃帝にされたんじゃないのか?
まあ、あくまでも仮説だけども、考えられなくはないんじゃないかなぁ
- 2000/02/13(Sun) 06:16:26|
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性は諸葛、名は亮、字は孔明・・・などと、いちいち説明せんでもいいくらい有名な三国時代の蜀の軍師
一流の軍師と評価されているが、史実では軍事よりも政治にその才を発揮する人物であったらしい
人事が苦手で、何度か抜擢を誤り失敗している
「泣いて馬謖を斬る」の格言は、そもそもこの人が抜擢を誤らなかったら起きなかったはずだと思うんだけどなぁ・・・
- 2000/02/13(Sun) 06:13:21|
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